理想の最前線

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本を読むと少し高尚な気分にならない?

最近珍しく勉強なるものをした。行政法はややこしくて本当に苦手だ。説明を読んでいると「それなんか変じゃない?」って事が多々ある。この世は理不尽だ。(よりにもよって行政に関する規律なのに!)

 

行政法くんの嫌な所がもう1つ。裁判がやたらと多い。刑法並に多い。その上ややこしい。法学徒を舐めている。

勉強する上で当然ながら関連判例を読み漁る日々になった訳で、1日中長ったらしい文字を読み解き続ける羽目になった。

 

 

この反動で文章が軽いものを読みたくなった。自宅にある唯一の書籍が星野源の『いのちの車窓から』だったので、丁度良いし読むことにした。

 

この中で1番確かに!ってなったのが「コサキンと深夜ラジオ」の章だった。

著書が高校生時代に聞いていたラジオの話で、著書視点からラジオを通して感じたことを語る章になっている。締めに「人を馬鹿にせず自分が馬鹿になること」とあった。これが共感ポイント。

 

 

以前書いた記事に面白い話をしたい、と書いた気がする。日本語における ”面白い” とは複雑な言葉で、パッと思い付くだけでもfunnyやinterestingとか多くの意味を含んでいる。じゃあ自分の目指すのは何処なのか、という話になる。これに関しては(僕は都合のいい人間なので)、人を惹きつけるだとか笑いを取るといった広い意味で捉えている。

人を惹きつけるのはあまりにも難しいので後回しにするとして今回は笑いを取る、という所に注視したい。

 

 

 

最近部活に行くのを辞めた。これまでは何よりも部活を優先してきたが今回はあっさり決められた。

理由は面白く無くなったからだ。

会ったことある人なら何となく分かるかもしれないが、僕自身いじられキャラの部類に入っている。簡単に話の中に入れるし、その場で簡単に笑いを取れる。自分が馬鹿になることで笑いが取れるのだ。

大層なプライドは持ち合わせてないのでこの立ち位置で色んな人と仲良くなれるのは美味しいとすら感じていた(最初は九州で友達いなかったし…)

 

ただ、一線を越えたものは許容出来ないことはある。大会でシード決定戦に負けた後、死にそうな気分を抑えながら応援しに行った後輩から「いつもの弄り」と称した罵倒を受けた時は目ん玉くり抜いてやろうかと思ったし、僕が彼女と1度もヤることなく別れた話で(僕のいない)飲み会の席を盛り上げているのが聞こえた時はベロ引っこ抜いてやろうかと思った。

後者に関しては相当盛り上がっていたし、これ以外にも容姿をバカにするような話はよく聞こえてくる。悪口しか聞こえて来ない地獄耳とは便利なものだ。

 

これらが積もりに積もって1ヶ月部活を休むことにした。周りは大概事情は知っているのであっさり許された感じはある。人生に必要なのは理解者なのかもしれない。

この辺の理解者連中は弄りが上手い。先に僕に喋らせるからだ。僕が喋りながら自虐を挟んだところで盛り上げる、これならネガを出したのは自分だし、盛り上がってくれるなら不快になることは無い。寧ろ不満を面白く喋れていることになるんだから儲けもんまである。上手く出来た構造だと思わない?

 

話者と聞き手、皆が不快にならずに盛り上がることが1番楽しい空間である。これは言うまでもないだろう。これを目指そうと思えば、「自分が馬鹿になる」ことは不快な人間を極力排除した最短経路になると思う。これが出来る人は少ないけど。

加えて、他人の悪口が1番盛り上がるということも書いておこう。そりゃそうだ。悪口を言われてない側からすればノーリスクハイリターンの構図を取れるからだ。何よりも該当者への不満を吐き出せて一石二鳥にもなる。(余程頭が弱くない限りは分かると思うが)悪口は当人の居ない所で吐けば盛り上げる要素になりうる。良い事ではないが……

コサキンがやっていた深夜ラジオは公衆に向けた物だから徹底的に出演者の2人が馬鹿になっていたという捉え方もできる。少なくとも聞き手が不快にならない配慮のされた上手い喋りだということが本を読んでいて伝わってきた。これが面白い話を目指す上での理想だろう。

 

 

 

 

『いのちの車窓から』は、星野源が書いたエッセイで、正に天国から地獄まで様々な経験をした人間の経験談が多く語られている。書き方もポップで読みやすいので色んな人に読んで欲しい。これがガッキーの旦那かと思うと面白くて仕方ない(少なくとも僕は)。

 

 

そういえば話の入りは行政法のテストの件だった。

真面目に1週間、バイトの休憩時間までしっかり使って勉強した結果7割無さそうな感じだった。

どうせ期末はもっとエグい(そもそも範囲が3倍になって飛んでくる)けど落単するともう1年遊べてしまうので何とかせねばならない。

 

またあの判例共と向き合うのは勘弁である。